昭和43年2月26日 朝の御理解



御理解第21節 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。 わが心が神に向うておると言うこと。全てのことに、それが言えると思うのですね。神に向かうておる。先日、ある方がこんなお届をされて、それを自分でも本当なことだと思い。自分の本当なことだと思っておることが、もっと本当のことがあると言うこと。
 それがね、自分の心が神に向うておると言うことから、本当なこと、本当でないことの判断がつくのです。話を聞いておって、いちおう、なるほど、それは、もっともだと思うんですけども。私から言わせると、惜しいことをしたなあ。本当の事をしてるのに、本当の事でなかったなあ。それによって、それこそ、「闇の夜に火が灯るようなおかげが受けられるのになあ」と思ったことでございますがね。
 その人の家内のお父さんがやってみえましてね、まあ、大変な財閥です。兄弟が何人もおります。自分の娘の嫁入り先でありますところの、家にやってまいりましてから、言われるんですねえ。なかなかやはり、娘婿である人が、信心はあるし、人望もあるし、事業も順調にいってますし、子供達も良くできておりますし、やはりあの、人柄も良いから、お父さんが信用しておられる訳ですね。娘婿を。
 その辺は大変な、いわゆる財閥ですから、お金も沢山持っておりますから、他の兄弟達にやろうと思わんから。これこれのお金を持って来たから、「あんたが貰うてくれ」と言うて金を持って来た。ところがこっちは、なかなか義理堅いもんですから、そりゃ筋が違うから、他の兄弟達にやってくれ。
 私達は、こんな風で商売も事業も調子良ういっとるから。私達は貰わんでも、爺ちゃん、それは他の困っておる人達もおる事だから、実際、兄弟の中に困っておる人達もあるんですよ。本当の話、子供さんの中に。ですから、にやってくれと。せっかくお爺さんが持って来たのに、それを受け取らなかった。
 それを本当に断らせて頂いた自分が、「有難い」と言うて、お届されたんですけれどもね。皆さん、本当なことと言うのがいくつもあるけれども。本当な、本当なことへ本当なことへと、私共いつも思いを置かにゃいけんですね。わが心が神に向うておるなら、どういうことになるだろうか。
 皆さんの場合、どういうことに、私がこれだけ言うたから、はあ、それが本当でないならば、「貰うとが本当じゃろう」と言う、浅い考え方じゃあいけませんよね。皆さんなら、どうされますか。なるほど、その人は立派な人でもありますから、立派だと思われるでしょう。けれどもね、「心が神に向こうていなかったなあ」と思うのですよ。
 もうそのですね、他の兄弟にやったっちゃ、それはもう、同じことだと、もう知っておられる訳です、お爺さんが。もう焼け石に水をかけるようなもんだから、本当の自分の子供達には難儀しとるとに、やったっちゃ同じこと。この娘婿にさえやっときゃあ、十分活かしてもくれるだろうと信じておられる。
 だから、まあ、もうお年でもありますが、そこえやって、「自分も安心しょう」と言う気持ちだったけれども。それこそ、がっかりして帰られたに違いないですね。子供に、まとまった相当なお金をやって、子供の、または娘の喜ぶ顔も見て帰ろうと、こう思うて、わざわざ持ってみえたのを、娘婿は、「すぱっ」と断った。それは信心があるから、それは貰わんのがほんなこつだと言うような考え方。
 そして、「他の困っておる兄弟達にやってくれ」とこう言う。これはもう、世間一般で、「それの方が本当だ」というふうに通用するだろうと思う。私の方が、間違いだと思うかもしれませんけれども。問題は、心が神に向うておればです。「心が神に向うのを信心と言うのじゃ」とおっしゃるのですよ、もうだから、信心じゃないです。
 私ならですね、私なら、そんなら爺ちゃん、私が必ずこれを活かして使わして貰うから、そんなら、あなたがせっかくじゃから、私が頂いておこうと頂いたら、お爺ちゃんも安心されただろう、喜びもするだろう。そして私なら、そのまゝ、神様へお供えしますですねえ。
 そこにねえ、親も喜ばせることができ。信心の上に於て、霊的に言うても。お爺ちゃんが、絶対助かられる道が開けるです。自分の心が神に向うておる、向うておるなら、そうしなければ嘘なんです。自分の心が、神様にそれほど向いてない証拠です。ね。これは、まあ大変、いうならば難しい話なんですよねえ。
 けども、本当の本当と言うたら、そうなんです。自分に我情もなければ我欲もないのですから。それを貰って、どうしょうじゃないけん。こりゃあ本当に、お爺さんが助かんなさらにゃならん。もう何年生きなさるか分らん。しかも、ほんなら、それだけ財産を分けられたからと言うて、もう全部、それこそ、沢山なお金も財産も持っておられるお爺さんですから、ね。
 いよいよ心の上にも助からんならん。形の上にも助からんならん。これをお供えしてから、お爺さんのことを祈らしてもらおう、願わしてもらおう。これが、心が神に向うておる証拠です。ね。わが心が神に向う。そしてですね、このはしばし迄、今の、この御理解のところを、ひとつ考えて欲しいと思うですね。
 まあ皆さんのところに、こういうことがあろうとは思われませんけれどもね。けれども似たり依ったりのことは沢山ありますよ。それは金銭は金銭でも、額は小さくても。問題はね、もう自他共に助かり、ね。神様も喜んで下さり、しかも、それこそ「心の中が闇だ」と言うようなお爺さんの闇の心の中に、光を灯してあげれる働きというものが、ね、なされなけりゃあならんのですよ。
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」。自分の心が神に向うておりゃですねえ。一切が神に向うとらにゃ、こりゃ神様にお供えさして頂いてと、自分の心が向いた時こそが、本当は、その人の信心だと言うことなんです。ね。向いとらんでしょうが。いわゆる、人情一遍ではいけんと言うことです。
 しかもお爺さんは、本当に自分の娘婿に惚れ込んでおるですよ。やっぱそういう立派な人物ですから、もう、これさえやっときゃあと、本当に喜んでくれるだろうと、持って行ったところが、それを見事に断った。「あゝ、うちの娘婿はいよいよ感心する」というふうに思われたかは、それは分らん。けれども、お爺さんの心の中は闇です。
 せっかく、そうでしょうが、これなら、もう少し小さいものにしましょうか。はあ、子供が、孫が学校から帰ってきたなら、このおやつをとっとってやろう。まあ、お爺ちゃん、お婆ちゃんがひとつ致したとしましょうか。「お婆ちゃんただいま」と、やって来たから、「はあ、帰って来たの、さあ、一丁良かもんばやろうか」。「いらん」と言うたら、どげんなります。ね。
 それこそ年寄りの心は真暗です。それを貰う。そして、それを神に向ける。心が神に向うとりゃあそうなんです。しかも、その当時は、もう椛目、今でもそうですけれどもです。御造営、御造営で、もう、それこそ一から十まで、「御造営、御造営」と言うておる時代でした。
 よーう日頃願うておることがです、こういう不思議な事で成就されるのですから、も、こげな有難いことはないでしょうが、実際言うたら。それが、あんまり金額が多いすぎたもんじゃけん、神様にお供えするとが惜しかったんですよ。いうならば。そこにですね。私は、心が神に向うておると言うことがですね。もう本当に、お爺ちゃんも助かられるだろう。自分の願いも叶う。神様も喜んで下さる。もう絶対、間違いのないこと。
 最近、言われる、いわゆる素晴らしき還元が、自分だけではない、おじいちゃんのところでも、どういうことで儲け上げたお金やら、分らんのじゃから。せめてそれ位のことで、まあ、いうならば、罪滅ぼし的な意味合いに於て、でもです。
 そりゃあ、お爺ちゃんに、「お供えする」と言ゃあ、お爺ちゃんが、「惜しい」と言いなさるかもしれんけれども。一旦は自分が、信心のある自分が受けて、自分のところで受けて浄化して、それを神様へ向ける。わが心が神に向うておると言うことは、そういう事なんだ。ね。
 本当に、「神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし」。本当に、御神徳の中にあってもですね、本当に、御神徳の中にあっても、御神徳を現わすことがでけん。神様に、そういう心が向いておらなければ。「カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり」。
 お爺さんの心は暗い。もう老い先、短こうなった。本当に自分が、これだけ持っておる財産をです、せめて少しぐらいは、明るい所へ、生きた所へ使いたいと言う。子供の顔も見て喜ぼうと言う、その心がです。闇が闇でしまえた。
 「信心なければ世界が闇なり」。ね。そのことによって、世界が明るうなる。本当にですねえ、もう人間の考えで、まあ人情で考える。それが本当だと思うて、それを、そういうですね、思い方をひとつ、もう脱皮して行く。打破して行くというかね。そして本当な事が分かってきませんと、垢抜けたしたおかげになってまいりませんねえ。
 けれども、この人だけのことじゃなか。そりゃ貰うならですねえ。そりゃもう椛目の御信者さん、合楽の御信者さん方に、そういう事があったら、もう、まあ、ほとんどの人が貰うでしょうねえ。と言うほどにですね、その人よりも程度が低いです。
 そしてですね、そして神様には向けきらんです。貰うだけ。その中から、ちょこっとばかりは、お供えするかもしれませんねえ。ひょっとすると。そういう意味合いでなら、この人は素晴らしいですねえ。だから、自分でも言うておりますもの。「それを本当にさっぱり、それに欲をつけずにです、返されることが有難かった」と言うて。自分が、それがほんな事と思うとるから、お届けしたのですから。
 もう私は、その時すぐ、思いましたけども。本当に信心ちゃ有難いもんね。そういう時に、「すぱっと、その欲も、これに出さずに、返されるという事は有難いね」と思うたけども。その時、私は思うたんです。それは、「ほんなこつ言うたら、ほんなこつじゃなかばい」と言いたかった。ねえ。わが心が神に、本当の意味で向いていない証拠。わが心が本当に向いてない。それではお爺ちゃんの助かりようがない。
 お爺ちゃんも助かり、自分も助かり、神様も喜んで下さると言う助かり方があるんです。ですから、皆さんが、例えば、この話を聞いておって下さっておってです。私はあの、皆さんなら、ほとんど、まあ喜んでもらう人があるでしょうねえ。それではしかし、その人以下ですよね。しかし、それが大体、まあ普通ですけれども。だから、今日、私がそういう相当難しいことを、皆さんに聞いてもらった訳ですけれど。ね。
 そういう時にね、もうそげなものば、そげなものばと言うちゃならんけれども。自分の身にどんつけてから、そしてから、その中からちょこっとばかりと言うのじゃ、ほんなこつつまらん。本当に、お爺ちゃんが助かってもらわなければならない。という自分の心が神に向かうておるならば。
 昨日、研修会がございましたが。もう本当に、立ち上がるのが惜しいぐらいに、良いお話が段々出てまいりました。皆さん、帰られました後にまた、秋永先生を中心に五、六人が残ってから、ぎりぎりのお話をさせて頂きました中に、秋永先生が、皆にも、話ておられましたが。「こういう素晴らしい信心、こういう有難いことを、うちの親先生は、どうしてまちっと早よう、私に教えて下さらんじゃっただろうか」と言う、お話がありました。
 私は教えてきとるつもりですけれども。そちらに受け心がなからなければ、それが入っていかないのです。というて、なら例えば、その事をですよね、本当の事をですね、例えば、本当のことをですよ。ね。その人が、ね、私が、今お話しました事をです。そりゃああんたが、考え方が間違うとるよ。これの方が「本当よ」と言うても、本当と受けきらない、まあだ。何ヶ月前か知りませんですけれども。ね。
 秋永先生も、それをやっぱり、昨日言うておられましたね。ね。「これが本当だ」とこう思うておった、その時には。ね。今から考えて見るとです、ただ金光様の信心がいろいろ分かって、「いわゆる高度化した信心を持っておって、内容のない事であった」という事を、今にして分かっておられます。
 信心に修行はつきもの、金光様の御信心は、もうお日参りをはずしたら、ほんな信心なあ頂けようはずはない。全知全能でない神様。人間が本気になって、氏子が現わしていかなければならない神様。金光様ですら、百何年に渡ってから、三時五十分の、いわば早朝から御神勤なさられるのが、金光様の御信心。
 全知全能の神じゃない、なんでもかんでもが出来なさる神様じゃあない。けれども、こちらの真心一心をもっていきゃあ、どのような事でも、以上の事が出来れる神様であって。私共が精進しなければ、おかげの受けられない信心であるということをです、もうとうの昔、それくらいのことは知っちゃる。ね。
 けれども、あまりにも信心が高度化しすぎる。そこへ、例えば、修行のことなんか言うたっちゃあ、それこそ、当時の秋永先生は、耳も貸さなかった。いゃあむしろ、「そりゃあ違うとる。これがほんなこと」と言うて、自分の思うておる事を、「ほんなこと」と言うに違いはない。ね。
 今日、私が、その話している人でもです。本当に、ここでは一流の一流の信心をしておる人ですから。ね。その自分が、そのお金を返したという事が、本当だと思い込んでおりますから。それが信心を頂いておるおかげで、欲をださんですむと思うとるのですから。「我情我欲がなか」と言うような思い方をしておるのですけど。私が、今言うても、まあだ本当と受けきらんです。
 私はそういう素晴らしい本当のことを皆さんに、お伝えしているんです、いつも。けれども、それがですよ、それが本当と分かるのには、やはり時期がいる。ですから、今日のようなお話でも、皆さんが聞いておってです。ね。それを自分の身に、そういうような、まあ似たり依ったりのような時にです。
 はあいつか、ほんにこういうお話を頂いておったと言うようなものが、生きてくることが必ず来るだろうとこう。ね。そして、本当なこと、これが、「わが心が神に向うておる」と言うのは、こういう事をもって向うておるのであると悟らしてもらわにゃあいかん。私は本当に、その人のですね、その人の考え方よりか、私は、皆さんの方が、まあだ程度は低いと思うです。言うちゃあすまんですけれども。ね。
 なぜかと言うなら、皆さんなら、おそらくここにこれだけおられるが、貰われる人の方が多かろうと思うからですよ。ね。そして、「おかげ頂いた」と言うに違いないです。年寄りも喜んでくれました。自分も嬉しかった。ばってん、それを神様が喜んで下さるようには使いきらんです。ね。
 その一部の中から、御初穂くらいの事は出来ましょう。それではねえ、本当の意味で、お爺さんも助からんです。お爺さんを助けたいと思うならです。そういう意味での、スキットした還元がなされなければ、還元が還元にならん。わが心が神に向うておる。本当に神様に向かうておる。
 その当時で、言うなら、御造営なら御造営に、自分の心が本当に向うておる。自分なもう、自分で、もう、たとえて言うならば、「いくらいくらお供えする」と言ったような、あれがありましたですわね。御造営が始まる前に。百万なら百万、お供えするという人が、もう百万、自分な自分の、ね。神様にお約束しておった、お供えしてしもうとるから、もう、それでこと足りたように思い方をしておる。
 限りがない、神様に向うと言う心は限りがない。はあ本当に、こういう素晴らしい合楽の大事な時にですね、こういうお繰り合わせ頂いてです、これが出来ると言うことが有難いのである。そこには、神も喜び、自分も有難い。お爺さんも助かっていけれる道が開けるのですよ。それが、本当なんです。それが、自分の心が本当に神に向うておる時であり。自分の、これが本当に御造営なら御造営に、打ち込んだ向い方をしておるときなのです。
 そこのところを、お互いが思うておる思いをですねえ。本当なことの様に思うておる。だから、思うておる本当のことをです。いつも検討してみて、本当に、これが本当なことであろうかと、検討していかなければいけないと思うですねえ。もっと本当なことへ、その自分の信心が、向うていかなければいけんのですよ。
 皆さん、お話を聞いて下さっておってからですね。はあ皆さんの顔に書いてあるんですよ、「惜しかあ、そげなこつしてから」と言うちごたる顔しとんなさいますよ。という程に、皆さんの信心は、まだ程度が低い。せっかく、わざわざ持ってきてくれたのを返してから。だから、そういう程度ではですね、まあだ、まあだ、程度がしれとる。ね。
 今日、私ね、『御神前で、御用松をですね図案化した。そして、下にですね、大坪の大という字、大という字、大という字を、また図案化して、丁度松葉のようにして、そのこうして松の下に、その大という字がこういうふうに枝のように出ておるところを頂きましたですよね』。ね。本当な事へ、心が向っていかなかったら。これはもう、それだけのもの。信心の内容を持ってです。
 先日からも申しますように、ね。「大和さん、大大和にならなきゃいけませんよ」と。大きゅうならね。例えば、甘木の平田さんあたりが、先生と言うちゃならんと言うと、皆は、何と言うかと言うと、「大平田」と呼ぶようになった。おかげを頂くと、大の字が付くようになる。
 皆が、ひとつ大の字の付くようなおかげを頂かなきゃいけませんよ。だから、本当に大の字の付くような、おかげを頂きたいと願わして頂くなら、今日、私が申しましたような本当なことが、本当に、「そうだ」と合点の出来れる信心を、頂かなければならんと思いますね。どうぞ。